大和当帰

大和当帰

大和当帰とは

当帰はセリ科の多年草で根を「当帰」といい神農本草経の中品に収録され、以来歴代の本草書に収載されている著名な生薬で、日本では、17世紀の中頃から大和や山城地方で当時大和地方に野生していた深山当帰系のものを栽培し、当帰として利用し、今日の大和当帰となったと考えられています。 国内生産全体では、栽培しやすい品種である北海当帰が北海道を中心にして栽培されており、大部分を占めていますが、品質は大和当帰の方が良いとされています。

主に婦人薬として使用され、血の道症などに効果があり、当帰芍薬散などの処方が有名です。精油(リグスチリド等)を含み、漢方処方薬として、補血、強壮、鎮痛、鎮静などの目的で、婦人薬、冷え症用薬、保健強壮薬、精神神経用薬、尿路疾患用薬等の処方に高頻度で配合されます。

古代

日本最初の薬猟

「日本書紀」推古19年(611)5月条に「夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。鶏明時を取りて、藤原池の上に集ふ。会明を以て乃ち往く。(以下、略)といった記載があります。菟田野(うだのの)は宇陀野(宇陀の大野)のことであり、現在の奈良県宇陀市大宇陀迫間や中庄周辺の「阿騎野」のことを指すと考えられます。この記載は、史料で確認できるが国最初の薬猟の記録でもあります。薬猟の際、男性は薬効の大きい鹿の角を取り、女性は薬草を摘みました。

推古19年(611)5月5日の菟田野での薬猟に続き、翌20年5月5日には羽田(高取)で薬獨が行われています。 以後、「日本書紀」には 推古22年と天智7年(668)5月5日に薬猟を行ったと記載されるのみですが、宮廷儀礼として毎年5月5日には.薬猟が行われていたのでしょう。

近代

薬のまち

江戸時代、宇陀松山は「宇陀千軒」とよばれるほど、多くの町家があり、薬を扱う家も多かったといわれています。記録では、日本で作られた生薬を取り扱う和薬店が12軒、薬用種を取り扱う薬種店が12軒、薬剤を調合する合薬店が23軒もありました。「森野薬園」があることも含め、松山が薬のまちとして知られる理由はここに見られます。

「森野薬園」は、江戸時代中期、当主森野通貞が幕府の採薬使植村佐平次と共に、近畿、美濃、北陸の諸国から薬草を採取、幕府より下賜(げよう)した貴重な薬草を自家の山に植えたのが始まりです。明治時代になると、国内の薬園は、次々と廃園となりましたが、「森野薬園」は、不断の努力により残りました。現在最古の私設薬園であることから、大正15年(1926年)、「森野旧薬園」として、国の史跡に指定され、今も往時の面影を伝えています。今も旧薬園内では、250種類以上の薬草木を観ることができます。

現代

薬草のまちづくり

奈良県出身の製薬メーカー創設者は数多く、武田薬品、ツムラ、ロート製薬、アステラス製薬(旧藤沢薬品工業)などが知られています。大和高原と呼ばれるほど自然豊かな田園風景が広がっている宇陀市は、推古天皇が薬猟をしていたという「菟田野(うだのの)」と呼ばれる地であり、古来から薬草が良く育つ土地だったそうです。日本最古の薬草園「森野旧薬園」も300年にわたり現存しています。

「薬草のまち」を掲げる奈良県宇陀市が、耕作放棄地を活用し、漢方薬に使われる大和トウキの産地化を進めています。